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吉原は慶長17年(1612年)、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門が幕府に陳情し5年後の元和3年(1617年)に、甚右衛門を惣名主として江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可した。
この時幕府が甚右衛門らに提供した土地は現在の日本橋人形町にあたる葦屋町とよばれる2丁(約220平方m)の区画で葦の茂る僻地であった。
葦は「悪し」とも読める為、縁起の良い「吉し」と読ませるべく吉原としたと言う説。陳情した庄司甚右衛門が元々東海道吉原宿で女郎屋を営んでいたからと言う説など諸説ある。
明暦2年(1956)吉原周辺まで江戸屋敷が隣接するようになり幕府は移転を命ずる。候補地は浅草寺裏の日本堤が本所であった。翌年吉原は日本堤へと移転し、以前の場所を元吉原、移転後を新吉原と呼んだ。
映画『吉原炎上』などで知られる吉原の大火は延宝4年から慶応2年までに22回あった。また関東大震災、東京大空襲でも全焼しているがその度に復興している。
『YOSHIWARA』の名前は海外でも有名であり東京大空襲から二週間後の新聞にはプロパガンダの為に『吉原復興』の見出しが踊ったほどだ。
多くの遊女は年季奉公と言う形で働かされ、一定の年限を働くか、遊女を購った金額を返却できれば解放されるとされていたが、性病、栄養失調など健康状態も悪く遊女の大半は遊郭で終えた。
引き取り手のない遊女の亡骸は投げ込み寺と呼ばれた浄閑寺に埋葬された。浄閑寺が投げ込み寺と呼ばれるよにうなったのは安政2年の安政江戸地震で600名超の遊女の亡骸を投げ込んで葬った事による。
花又花酔の川柳に『生きては苦界 死しては浄閑寺』と詠まれ新吉原総霊塔が建立されている。ちなみに写真家の荒木経惟氏の生家は浄閑寺向かいの「にんべんや履物店」(1977年に解体)
高級遊女である太夫は現在で言えばトップアイドルのような地位であり髪の結い方や帯の締め方、簪など遊郭から新しいファッションとして広まり、芝居や浄瑠璃として語られ江戸市中の若い娘はこぞって真似をしていた。
戦後、GHQの命により公娼廃止となったが特殊飲食店街いわゆる赤線と形を変え遊郭は存続したが売春防止法成立1956年(昭和31年)・売春防止法刑事処分施行1958年(昭和33年)4月1日をもって新吉原の歴史は幕を閉じた。
一度は火の消えた吉原であったがトルコ風呂の登場により不死鳥のように蘇る。そのトルコ風呂と言う名称だが、日本に滞在するトルコ人との間ではセックス産業に使用されている事に対し憤慨を呼び起こしていた。
東京大学に留学していたトルコ人留学生、ヌスレット・サンジャクリも「トルコ風呂」の名称にショックを受けた一人である。再来日した1984年8月に当時の厚生大臣である渡部恒三に「トルコ風呂」の名称変更を直訴するなど、改名運動を行った。この運動は小池百合子(後に政治家)の協力を得て、日本のマスコミにも大きく取り上げられた。
その結果「トルコ風呂」の名称が撤廃された。しかし、代わりとなる名称が決まらず、暫定的に「特殊浴場」「特浴」「湯房」などの名称が使われた。
2,400通以上の募集があり、最も多かった名称は「ロマン風呂」「浮世風呂」だった。ほか、「コルト」「ラブリーバス」「オアシス」「ロマンス風呂」「ラブユ」などの名称が提案されたが
東京都特殊浴場協会は赤坂プリンスホテルで会見を行い1984年12月19日より『ソープランド』と改名された。
つまり現在のソープランドは350年以上続く吉原遊廓の末裔であり、江戸から続く“粋”や“手練手管”など単なる射精産業ではなく『男女の秘め事』を唯一楽しめる場所だとギャルコレは考えます。