『あけおめこ とよろ』
今これをカイているのが1月2日で掲載されるのは正月も半ば過ぎていることだろうw
お正月と云えば~炬燵を囲んで お雑煮を食べながら なんてはっぴいえんどが歌っていたがこういう
一大イベントのような事があると皆気分一新してなんかエラく特別に変わった気がするモノだが実は普段と同じなんてことはない一日が過ぎただけなのである。
古くは一休さんもなにがめでたい、死に一歩近づいただけだとか言っていた。
俺は年越しを過去に結核の入院だとか拘置所に入れられて過ごしたとかはたまたバリ島にヤクザとモメ
て逃亡しててとかで普通とは言えない年越しの経験があるが、本当になんのことはないただ当たり前に
一日が過ぎただけである。
新年になって多分ほとんどのヒトはまるで劇的に時代が変わってゆくような錯覚に陥っているが本当は毎日が劇的に変わっているハズなのである。
この自分の中での変化の認識をこういったイベントなど意に介さず感じられるようになれればかなりの人間的成長があると思われる。
ヒトは常に新しいワケでその新しさについていっていない現状は非常にマイナスだと俺は思うのだ。
あなたがもし今の自分よりも魅力的になりたいと思っているのなら、これから言うことは実に重要な事で今言ったような状態であるなら本当に勿体無い。
自分をちゃんと見つめるというのは非常に勉強になる事で、ヘタなモテ本だとかに頼るヒトたちに言いたい。
大抵の事は自分の中あるいは外からの刺激に対する自分の反応を細かく見つめていればどんな自己
啓発本やモテ本その他の書物を漁るよりもずっと効果的だ。
なにしろ、本の類はあなただけに向けて書かれているワケではなくしかも少し詐欺的なニオイすらする、デキレースと言っても良い。
そこに書いてある事は大抵ご都合主義でもっともらしく書けば成立してしまうものだ。
しかし自分を観るというのはあなた本人なのであるから専用はモチロン、あなたに特化したヒントがゴロゴロしている。
本人がちゃんと否定も肯定もせずに観る事ができれば当にダイレクトな解決方法の緒が掴める。
あくまで公平に自分を観ることができればであるが。
コツみたいなものをお伝えしよう。
生き物は生きている為肯定的に出来ている故、最後は自己肯定するように出来ていると俺は睨んでいる。
だからそんな特性を考慮に入れて俺は自分を少し否定的に観ている。
自分で自分をごまかすのはカンタンで、ヒトによっては自分を甘やかし放題の事もある。
自分でわかってやっているならば制御する事も可能であるが大体は無意識にやっている、自分に対し
て言い訳の多いヒトはもう一度注意して自分を観てみよう。
潔い事は決して恥ずかしい事ではないのでむしろ自分にウソをつける方がナンボも恥ずかしい。
ウソをつかず公平に自分を発表できればそれはとても気持ち良いものだ。
ポジティブという言い訳を逃げ口上にしている連中も多い、俺が思うポジティブとは間違った事や失敗に
ついてそれを気にしないのではなく、間違った事を間違った事と認め、間違っていないように即時に修正しようとスル事がポジティブなのだと思う。
ネガポジどちらも理性的な行為でありそこには感情の在り方は関係ないのである。
その失敗に依って自分が不利になってしまうとか不快になるとかカンケーにゃあのである。
事実を事実として観たら間違っていればただ単に正すという事しかないのである。
俺が一番好きな言葉は「しょーがない」って言葉w
ぐうの音も出ないくらいしょーがない状況は多々あるハズで、多くのヒトはそれを回避しようとあがいている。
しかししょーがない状況であるならばあーもこーもなくしょーがないのだw
これは開き直りとは似て非なるもので、潔さゆえに生まれる状態であるのだ。
開き直ってはイケない、それは単なる放棄であり拒絶である。
物事を解決するのに諦めてはイケないのだ、諦めていないからこそ理解が生じてしょーがないの境地に至れる。
是非もなし。
この状態に到れれば物事の本質はことごとく紐解かれてゆく。
但し、達観したのと似ている状態で俺の造語でトジティブというのがある、結果としては似ているので騙されやすいが何事もそれに至るプロセスが重要なのであって、開き直りや放棄した状態、いわゆる理解を閉じてしまっているトジティブなヒトも多くいて、そーいう輩はエラそーにしているので要注意w
本当の理解には謙虚さが必要なのです(^o^)